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呉鉄城
ごてつじょう



登場:第92話
肩書:上海市長

 当時の上海の市長。船で訪れた羅虎城を港で出迎えたが、あまりにも小さな羅の姿に気付かず、その後ろにいた部下を将軍を信じてガッチリ握手をしてしまい、怒った羅に剣で尻を刺された。
 実在の人物。





 呉鉄城(1888年〜1953年)

 幼い頃から英文を学び、九江同文書院に入学。1909年に革命派の林森と知り合い、中国同盟会に加入。その後、祖籍が同郷であることから孫の側近として起用された。1913年、二次革命が勃発に伴い自らも蜂起を促すが、革命は失敗に終わり、日本に亡命。明治大学に入学し、法律を学んだ。翌年に孫文が中華革命党を組織すると、率先してこれに加入。以後は袁世凱打倒のために宣伝活動に従事し、1916年に帰国して、香港やマカオで反袁活動を継続した。その後も1925年に孫が死去するまで、側近として運動に参加し続けた。

 同年、国民党左派の廖仲トが暗殺された際、広州市公安局長の地位であった呉は、事前に廖に対する警備を薄くする指示を出していたこと
して暗殺の主犯と疑われ、蒋介石によって公安局長から罷免され、1926年5月には逮捕、収監。同年10月に釈放された。その翌年に上海クーデターが勃発すると、直ちに蒋介石支持を表明。中原大戦の際には蒋介石に命じられて張学良の説得工作を担当し、これを蒋派に参戦させたことで、蒋の信任を得ることになった。

 1932年1月6日、上海市長兼淞滬警備司令に就任。このとき、上海で日本軍との衝突が目前に迫っており、駐上海領事から最後通牒を受けた呉は、抗日組織の取り締まりを開始し、日本側に謝罪を通知するなどした。しかし、結局は第19路軍と日本軍との衝突が発生し、第19路軍は懸命に抗戦するも最後は撤退。上海停戦協定が結ばれた。その後も呉は引き続き上海市長にとどまっている。

 1937年、広東省政府主席に異動。翌年10月、広州市は陥落し、連県に省政府を移転させた。翌年12月、省政府主席を免ぜられ、重慶に召還されている。以後、香港・マカオの国民党党務に従事し、1940年には党中央海外部長に就任。この際には、東南アジアを外遊し、華僑を相手に抗日宣伝を行い、資金提供を呼びかけた。翌年春、重慶に戻り、南洋華僑協会・国民外交協会理事長に任ぜられた。

 日中戦争終結後の1946年、重慶で開催された政治協商会議に国民党代表として出席。1948年には行政院副院長兼外交部長に任ぜられたが、翌年に蒋介石が下野するとそれにあわせてまもなく辞任。国共内戦で国民党が敗北した後、台湾へ逃れ、総統府資政に任ぜられた。1953年11月19日、台北市にて病没。享年66歳。
(Wikipediaより抜粋)