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空海阿闍梨
くうかいあじゃり



登場:第239〜240話
肩書:日本に真言密教を齎した僧

 平安時代初期の僧。弘法大師の名でも知られる。
 かつて中国に渡り、真言密教の第七祖であった恵果和尚に弟子入り。並み居る高僧達を差し置き、恵果より全ての秘法を伝授され、半年でそれを修得。遣唐船にて日本へと戻った。その際、奇跡をなす子供達だとして、恵果和尚より三人の少年拳志郎の祖先達)を預かる事となり、彼等を日本へと連れてゆくことが、結果北斗神拳を日本に伝来させる事となった。





 空海(774年〜835年)

 弘法大師の諡号で知られる平安時代の僧。真言宗の開祖。中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

 宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡に生まれる。14歳の時に平城京に上り、18歳で京の大学で春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ。19歳を過ぎた頃から山林での修行に入り、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した

 延暦23年(804年)遣唐使の留学僧として唐に渡る。共に赴く最澄はこの時既に仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。空海の乗った第1船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れ、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられた後、長安入りを許された。805年、般若三蔵から密教を学んだ後、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事を受ける。初対面で空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを見抜いた恵果は、即座に密教の奥義伝授を開始し、胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられた。恵果から伝法の印信である阿闍梨付嘱物を授けられ、対して空海は伝法への感謝を込め、袈裟と柄香炉を献上した。

 同年12月15日、恵果が60歳で入寂し、翌年1月17日に空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草。3月に長安を出発して帰路につき、立ち寄った越州で土木技術や薬学を学び、経典などを収集した。

 大同元年(806年)10月、博多津に帰着。朝廷に『請来目録』を提出。唐から持ち帰ったものは、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物などとされている。本来20年の留学期間を2年で切り上げ帰国した罪のためか、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。

 大同4年(809年)、最澄の支援を受けて高雄山寺に入った。その後、2人は10年程交流関係を持えい、密教の分野に限っては最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至った。

 弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜の勅許を賜る。弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、自身が勅許後はじめて高野山に登り、翌年まで滞在した。翌年には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆。

 弘仁12年(821年)、満濃池の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。

 弘仁13年(822年)、東大寺に灌頂道場真言院建立。この年、平城上皇に潅頂を授けた。翌年正月には太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。天長5年(828年)東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であり、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもあった。

 天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。翌年に病を発症する。
た。

 天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々を送る。

 承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。

 承和2年(835年)、3月21日に入滅した。享年62歳。
(Wikipediaより抜粋)