TOP

何応欽
かおうきん



登場:第105話
肩書:国民党軍上将

 国民党軍上将。羅虎城を殺した閻王への処遇を決めるための会合に参加した。
 実在の人物。




何応欽(1890年〜1987年)

中華民国の軍人。字は敬之。

貴州省にて生まれる。中学生のときに日本に留学し、東京振武学校で学び、蒋介石と知り合う。辛亥革命が勃発すると、帰国して上海に赴き、革命派として活動した。敗北後、日本に逃れ軍事の学習を再開。1916年に帰国し、貴州陸軍第1師歩兵第4団団長に任命された。この頃に結婚もし、貴州講武学校校長、少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した。

1920年、王文華配下の同僚・谷正倫と共に旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世を下野に追い込んだ。しかし翌年、王が上海で暗殺されてしまい、その後は谷の間で主導権争いを展開。最初は優勢だったものの徐々に逆転され、ついには貴州から駆逐されてしまう。その後、雲南に赴き、陸軍講武学校校長に起用されが、怨みを抱く旧派の刺客に銃撃されて瀕死の重傷を負い、上海で療養することになった。

1924年、蒋介石の推薦を受けて孫文の下で大本営軍事参議に就任。1925年には陳炯明討伐の第1次東征に従事し、難敵・林虎を激戦の末に撃破。その後も数々の武功を上げ、「蒋介石の片腕」と評される存在にまでなった。1926年には蒋介石の後任として第1軍軍長に任命され、以降も蒋介石を支持し続けた。蒋介石が南京に国民政府を樹立すると、何も国民政府委員に任命されたが、徐州で北京政府に敗北を喫した際にはその責を問われて蒋介石より非難を浴びせられ、何応欽もこれに激怒。一時関係は冷え込んだが、1928年に蒋介石が復権して国民革命軍総司令に就任すると、何応欽も総司令部参謀長としてこれを補佐し、以後は関係は修復された。

1931年に満州事変が勃発すると、蒋介石の方針を遵守し、日本軍との全面抗戦には消極的な態度を取り続けた。1933年には張学良の後任として軍事委員会北平分会会長代理として北平に赴任。華北に侵攻する日本軍との交渉に従事し、塘沽協定を結んだ。

1935年、天津を中心とする華北各地での抗日行動につき、日本側が何応欽を非難。これに応じて河北省からの国民党部や軍の撤退等を内容とする梅津・何応欽協定を締結した。西安事件で蒋介石らが張学良らに拘禁されると、西安への攻撃命令を下すが、蒋介石直筆の軍事行動停止命令が届いたことで攻撃は中止され、西安事件そのものも平和裏に解決された。

1937年、日中戦争が勃発すると、南京で軍の編成にあたり、軍政部長や軍事委員会参謀総長などを兼任。戦時の軍制・計画・指揮に責任を負った。1944年に14年以上もの長期にわたり在任した軍政部長を退き、連合国中国戦区陸軍総司令に就任。翌1945年、南京軍官学校における日本の降伏文書調印式では陸軍総司令として中国側代表を務め、中国内陸部で降伏した日本人兵士らの安全な輸送帰国を遂行し、日本から感謝された。

日中戦争終結後、蒋介石は強大な軍権を掌握する何応欽に猜疑を抱き、何応欽の軍中の政敵である陳誠を信任するようになる。1946年、軍事委員会と陸軍総司令部が廃止され、何も同時に罷免。失意の何は、国連安全保障理事会軍事参謀団中国代表団団長としてアメリカに赴いた。1948年に帰国し、行政院政務委員兼国防部長に起用されるが、翌年5月に辞任。その後は台湾で過ごし、総統府戦略顧問委員会主任委員に任命され、蒋介石のために日本やアメリカ、東南アジア各国を訪問し、連携確立に努力した。

1987年10月21日、台北市にて心臓の衰弱により死去。享年98歳。
(Wikipediaより抜粋)