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張群
ちょうぐん



登場:第105話
肩書:国民党外交部長

  国民党外交部長。羅虎城を殺した閻王への処遇を決める会合に参加した。
 実在の人物。



張群(1889年〜1990年)

中華民国の政治家・軍人。国共内戦期には行政院長(首相)をつとめた人物。字は岳軍。

四川省の地方役人の家庭に生まれる。1908年に蒋介石と共に日本に留学し、東京振武学校で砲兵を学ぶ。卒業後、日本陸軍第13師団野砲兵第19連隊で実習に参加し、士官候補生となった。

1911年、辛亥革命勃発を知り、密かに帰国。上海で革命派部隊に参加し、軍務処軍械科長に任じられた。このとき、同じく上海で革命に参加していた蒋介石と「盟兄弟」の契りを結ぶが、後に蒋が陶成章暗殺事件への関与を疑われて日本へと亡命したため、その後任として第5団団長に任じられた。後に張も、討袁軍副官長に就任しての戦いで敗北し、日本に亡命。陸軍士官学校を卒業し、中華学校で教鞭をとるなどした後、護国戦争勃発にともない帰国。1917年、孫文の護法運動に加わり、大元帥府参軍に就任。その後、四川省にて孫文派の勢力拡大に努めるが、対立する政学系の熊克武らに敗北して駆逐された。

その後、北京政府で総統府総務処長、交通部司長などを歴任。1924年の北京政変後、四川省にて河南省警務処長兼警備司令に任じられるが、1926年に国民軍第2軍が敗北したため、上海へ逃亡。その後、蒋介石を総司令とした国民革命軍が北伐を開始したため、これに参加。蒋が一時下野に追い込まれた際には自らも下野し、共に日本へ。このとき、内閣総理大臣田中義一や陸軍大臣の白川義則らとの秘密会談を行った。日本留学組の中でも日本語が最もうまく、次いで何応欽、蒋介石の順だったといわれる。

帰国後の1928年、蒋介石が国民党主席として復権すると、張群も中政会委員兼外交委員会委員に就任。済南事件勃発の際には、再び来日して田中首相と会談。張作霖爆殺事件後には、呉鉄城とともに東三省の張学良を訪問し、これを説得して易幟に導いた。また、この易幟の前後にも再び来日して、日本政府との交渉を行っている。これらの功績もあって、張群は蒋介石から信任を受けることとなった。その後も国民革命軍総参謀長や国民党中央執行委員、上海特別市市長も兼任。

1935年、日本の侵攻に備えるための国民政府改組により、蒋介石が行政院長になると、張群は外交部長に就任。日本との交渉にあたったが、日本側に譲歩する姿勢を一切見せず、四川省等での日本人殺害事件に端を発した日中関係の対立激化により、外交交渉は完全に停頓。1937年、中央政治委員会秘書長兼外交専門委員会主任委員に任じられ、日中戦争勃発に伴い、軍事委員会秘書長となった。その後も様々な要職を兼任しながら、四川省の人力・財力を動員して、後方支援体制の整備を成した。

日中戦争後の1947年、行政院長に任命され、戦後経済復興の政策を進めようとした。しかし、国共内戦などもあって効果はなく、翌年5月に辞任して中政会秘書長に異動。1949年には重慶綏靖公署主任に任じられ、西南部確保のための方策を実施した。同年12月に一時的に逮捕、拘束されるが、まもなく釈放されて、台湾へ逃亡。そこでも様々な要職を歴任し、また日本との重要な交渉も担当し、何度か訪日して経済協力、反共戦略などを日本政府側と話し合った。

1990年、12月14日、老衰により台北市にて病没。享年102歳。
(Wikipediaより抜粋)