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蒼天の拳復習中
2017年6月28日(水)

蒼天の拳復活とのことなので、現在復習を兼ねまして全てのキャラクター紹介に解説文を書き加え中です。

なんとか来月のドラクエ発売までに終わらせたいので、それまで暫くサイトの更新はできないかもしれません。と言っても最近はニュースのっけてるだけのサボリ記事ばっかりでまともな更新とかしてませんけど・・・。

間を持たせるために、何キャラかの解説文を載せて様子見します。
愛参謀はようすをみている。



●潘光琳



 蒼天の拳の主人公は、もちろん霞拳志郎である。しかし「作品を象徴する存在」は誰かと言われれば、潘光琳になるだろう。蒼天の拳を構築している要素は「北斗」「朋友」「黒弊(ヤクザ)」の3つ。「北斗」は北斗の拳からあった要素なので、蒼天の拳ならではの要素となると「朋友」と「黒弊」の二つとなる。拳志郎にとっての最大の「朋友」は、間違いなく潘光琳である。そして全てのキャラクターの中で最も強い輝きを放っていた「黒弊」もまた、潘光琳だ。彼こそが蒼天の拳という作品の「イメージ」であり、彼無くしてはこの物語は成立しないのである。

 実際、潘はそれだけのカリスマ性を持つキャラクターだった。若くして上海を牛耳ったとか、凌遅刑で足を失ってからの奇跡の復活とか、そういう設定面は勿論なのだが、それよりも私が強く推したいのが"見た目"だ。拳力の強さがものをいう世界観の中で、一切拳法を使えない男があの雰囲気を纏えるというのは尋常なことではない。北斗神拳伝承者と並んでも全く見劣りしていない程だ。実際この二人が並んだ姿は実に画になっていた。下手をすれば玉玲とのツーショットよりお似合いだったかもしれない。決してホモ的な意味ではなく。
 潘光琳の位置付けは、一般的な「恋人の兄」ポジションとは明らかに異なっていた。拳志郎と玉玲の恋人関係とか関係無しに、二人は二人で朋友としての固い絆を作り上げてしまったのだ。拳志郎と玉玲の出会いが運命であったように、潘との出会いもまた運命だったのだろうか。いや、私はそれ以上の天の導きがあったのではないかと思う。拳志郎と潘光琳を結びつけたのは、北斗の宿命だったのだ。

 北斗神拳伝承者の本来の役割は、世に平安をもたらす英雄を守護する事である。しかし拳志郎が主に守護していたのは、潘光琳であった。もうほんと、メチャクチャ狙われまくってたからね潘さん。パッと思い出せるだけでも、7回は拳志郎に命を救われてるもん(初めて会った時、翁洪元の誕生会、唐親分との会合、拳が日本へ帰る直前、龍虎闘、章の手下に撃たれた時、最終回)。これで潘がその「世に平安をもたらす英雄」なのだとすれば、二人の出会いも必然ということになるのだが、残念ながら彼は好漢ではあれど所詮はヤクザ。英雄と呼ばれるには程遠い存在だ。しかし、そんな一人のヤクザを護り続けたことで、拳志郎は結果的に自らの使命を果たしていたのである。
 拳志郎が潘を護ったことで何が変わったか。それは青幇が上海を掌握した事だ。拳が居なければ確実に潘はあの世に旅立っていた。無論、潘なくして青幇の隆盛などありえない。崩壊する運命にあった青幇の未来を、拳志郎が変えたのである。
 青幇の復活と共に紅華会は衰退。それを受けて動き出したのが、張太炎と章烈山であった。しかし太炎も拳志郎の前に敗れ、紅華会は完全崩壊。そこで御大である章烈山自らが上海へと上陸してきた。その後、なんやかんやあって拳志郎は烈山を撃破。太炎より父の本心を聞かされた烈山は、今までの愚行を悔い、今後は中国のために働くことを誓った。その後の彼の動きは劇中で語られていないが、太炎が烈山に望んだ「国共合作」が現実の世界でも実現していることを考えると、宣言通りに烈山は国のために身を粉にして働いたのだろう。こうして中国は日本軍からの侵攻をなんとか防ぎきることに成功したのだ。
 そしてまさにこれこそが、拳志郎が果たした「宿命」だったのである。もともと北斗神拳が作られた理由は、戦乱の世である三国時代を終わらせるためであった。つまりは中国の平安のためだったのだ。そして拳志郎が導いた「章烈山を改心させての国共合作の実現」もまた同じ。形こそ違えど、結果的に拳志郎は中国という国の崩壊を水際で防ぎ、伝承者としての宿命を果たしたのである。
 三国志の時代とは違い、この1930年代の中国には守護すべき"英雄"は居なかった。しかし、真に大切なのは英雄の命ではない。その英雄がもたらす「時代の平安」なのだ。そこで天は、英雄なきこの時代に一人の男を選んだ。英雄ではないが、彼さえ護れば、"結果的に"平安は訪れる。そんな時代のキーパーソンとして選ばれたのが、潘光琳だったのである。彼を護っても、直接的な影響は無い。しかし潘を守り、青幇を護る事で紅華会は崩壊。それを受け張太炎と章烈山が動き出す。拳志郎との戦いの果てに太炎は改心。そしてその太炎の説得を受け、烈山もまた改心。生まれ変わった彼の手によって国民党と共産党は内戦を中断し、国共合作によって国の防衛へと動いた―――。まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」が如く、潘光琳を護るという行為が、まるでドミノ倒しのように運命を変化させ続け、結果的に中国の平和へと繋がったのである。これは偶然ではない。全ては北斗の星の導き。天はこの難解なロジックをも完全に読み解いた上で、拳志郎と潘光琳という2人の男を巡り合わせたのである。



●謎の導士




 まずこのジジイが何モンなのかと言われれば、まあ生きた人間で無いことは間違いないだろう。途中までは妖術使いである可能性も無いことも無かったが、227話で粒子が形を変えて老人の姿になった時点で人外確定です。おめでとうございます。

 しかし霊体というわけでもなく、コップに穴を開けるといった物理的干渉や、秘孔で寿命を延ばすという北斗の技も使うことが可能。逆に攻撃を喰らうこともあるようだ。人の形を成している時は、通常の人間と変わらないということだろう。普通に浮いたりしてる奴を通常の人間と呼んでいいのかはわからないが。

 彼に最も近い存在を挙げるとしたら、月氏族の墓に現われた狼であろう。その正体は、シュケンによって西斗月拳の高弟達が殺された事に対する月氏族の怨念であった。だがその元となったのは、シュケンに会いたいと願うヤーマの強い想いであり、それが永き年月を経て怨念へと姿を変えたものらしい。つまりはヤーマや西斗月拳の伝承者、高弟達、そして残された月氏族達という、西斗月拳全てに関わる者たちの思いの集合体といったところだ。
 一方の導士の方はというと、彼が現われるのがいつも北斗に関わる者達の前である事を考えると、やはり北斗を冠する拳法に関係する存在だと思われる。狼と同系の存在だとするなら、北斗神拳の歴史に携わった者達全員の想いの集合体ということになる。西斗月拳の悲劇もご存知ということは、もちろんシュケンの思念も含まれている事は間違いない。

 この二者を比べることで、導士の正体を探ってみよう。注目すべきは活動範囲だ。狼のほうは月氏族の墓で北斗神拳伝承者が訪れるのを待ち続けていた。つまりあの墓の中から出ることすらかなわない存在ということだ。それはおそらく、ヤーマの遺体がそこに安置されているからであろう。怨念が狼の形を成すためには、ヤーマの強い残留思念が不可欠であり、それはあの霊廟の中にしか及ばないのだ。
 かたや北斗の導士は中国のあらゆる場所に現われている。それは彼が、狼のようにヤーマ一人の強い思いで外型を形成しているわけではなく、北斗に携わった者達の思念が偏ることなく寄り集まった存在だからであろう。しかし、それではひとつ矛盾が生じる。劉宗武はドイツから中国に帰ってきた途端に導士が現われたと言っていた。拳志郎も日本滞在時には会っていない様子。つまり、彼もまた中国国内にしか出現することができないエリア限定の存在だということだ。しかし西暦806年以降、北斗神拳は日本で受け継がれている。もし導士の正体が北斗に関わった者たちの思念なのだとしたら、北斗神拳伝承者達の亡骸が埋葬されている日本にも出現できるはずなのだ。ということは、この導士の出現条件になっているのはもっと別の何か・・・中国本土に残された何かが鍵になっているのだと推測できる。 可能性が高いのは、泰聖院の女人像の下に眠っていた勾玉であろう。「ヤー(神)」を意味するその宝玉の中には、北斗の魂たちが宿っているらしい。806年以降の北斗神拳伝承者達の魂が日本ではなく、海をわたってこの勾玉の中に収まっているのだとすれば、導士が中国限定なのも説明がつく。なにより決定的なのは、「北斗の魂が宿っている」というその勾玉にヤサカが触れたとき、彼の前に現われたのが、ヤーマと、この導士だったことだ。ヤーマは西斗の人間でなので、残るこの導士こそが「北斗の魂」そのものだという証なのだ。

 ここまでくれば、もうこの導士の目的は明確だ。それは勿論、北斗神拳伝承者に残された最後の課題・・・西斗月拳の血筋の者を、怨念という名の呪縛から解放することである。北斗神拳伝承者を泰聖殿へと導き、天授の儀を経て、北斗の魂との語らいにより二千年前の真実を伝える。同時に西斗月拳の伝承者にも勾玉を通じて真実を伝え、月氏の神が北斗神拳の死を望んではいないことを伝え、長き憎しみの歴史を終わらせる。それこそが、導士が拳志郎を導いた「運命の旅」なのである。導士がこの時代に現われたのも、全てはヤサカという西斗月拳の拳士が現われ、北斗抹殺へと動き出したことが切欠なのかもしれない。


 しかし、彼が北斗の魂の集合体だとして、何故あの老人の姿なのだろうか。西斗月拳の怨念は狼の姿だったが、あれは谷へ身を投げたヤーマの命を救い、彼女の死後にはその赤子に乳を与えた狼だった。シュケンと別れた後のヤーマにとって、味方と言えるのはあの狼だけだった。その間、彼女はシュケンに会いたいと強く願い続け、やがてその愛が怨念へと姿を変えた。その想いを最も傍で感じていたのがあの狼であり、それを依り代とした結果なのだろう。
 ということは、あの導士も元々は北斗宗家に何らかの形で関わっていた人物である可能性が高い。北斗神拳創始時からいるのだとすれば、シュケンの傍で、彼の嘆きを耳にしていた人物ということだろうか。まあその頃のエピソードは描かれていないので想像のしようもないのだが、一つだけ気になる点がある。それは、あの導士が「密教星占術を極めている」という設定だ。もしかしてこれは、依り代となった老人の生前の職業に関係しているのではないか。つまり彼は、北斗宗家お抱えの占卜師であり、一族の人間に往くべき道を指し示していたのではないだろうか。もしそういうカウンセラー的な役割も果たしていたのだとすれば、彼がシュケンから心の葛藤を吐露されていてもおかしくはない。そのシュケンの哀しみを汲み取り、共に涙を流したことで、狼と同じように魂の依り代となったということだ。
 そういえば北斗の拳のキャラクター達は、死兆星をはじめ、星星の動きで未来を予言したり、誰かの死を察知したりしていた。その星占術を北斗に浸透させたのも、もともとはこの老人なのかもしれない。



●霊王/芒狂雲



 北斗神拳に分派は無いという設定を、言い訳のしようが無いくらい真正面からぶっ壊して登場した北斗三家拳。その先陣を切ったのが、孫家拳の霊王こと芒狂雲だった。それだけでなく、金克栄やゴランでは到達できなかった「作品最初の強敵」というポジションも担った、作品の全体評価に影響しかねない程の重要なキャラクターであったと思う。

 結果的には、彼はその重責を充分に果たしたと言える。だがその成功は当然と言えよう。何故なら彼は、過去に成功したキャラクターの集合体だからだ。始祖の拳を超え、孫家拳こそが最強であると証明する―――。その北斗神拳に対する対抗意識は、北斗の拳でいうところの南斗や琉拳に通じる。最愛の人を殺した殺してないのくだりもシンにそっくりだ。秘孔変位はサウザーの身体と似たものがあり、狂気を源とするのも北斗琉拳の魔道に近い。師殺しのエピソードはラオウ様だ。これだけ北斗の設定を良いとこ取りしたキャラクターが失敗するわけがない。
 ともすれば「使いまわし」などと揶揄されかねない設定ではあるが、この相似は意図的なものであろう。北斗の拳とは違い、1930年代の国際情勢が大いに絡んでくる蒼天の拳には、少なからずとっつきにくさがあった。しかし芒狂雲というキャラクターを使って北斗の拳との相似性を印象付ける事で、「世界観は変わっても作品の色は変えてないよ!」と読者に伝え、往年のファンの安心を買いたかったのではないかと思われる。狂気を売りにしたキャラクターだというのにその公務員ばりの安定性は何よ、と思われるかもしれないが、最初の敵が太炎のようなチンコ野郎だったら「ん!?」ってなるでしょう?サザンクロスで待ってるのがユダだったらイヤでしょう?いいんですよ最初は。判りやすい奴で。

 そんな、最初の敵として相応しい「割とベタ」な狂雲だが、もう一つ、最初の敵ならではの特徴がある。それは弱さだ。彼は弱い。バトル内容だけを見れば健闘してはいるが、その実はミスを積み重ねた弱者の人生であった。
 その最たるものが、阿片に頼ってしまったメンタルの弱さだ。彼が阿片を使うことで秘孔変位を会得できたことは確かだ。しかしその使用理由は、自分自身の秘孔を突く事への恐怖に耐えられなかっただけ。彼に死を乗り越える心の強ささえあれば、阿片など必要なかったのだ。相手は始祖の拳・北斗神拳の伝承者。それは神の拳であり、所詮は人間の拳である三家拳とは最初から大きな開きがある。その歴然たる差を埋めなければ勝利はありえないというのに、シラフでは死線を越えられなかったから薬に頼りましたというのは覚悟が足りなさ過ぎる。臆した時点でもう始祖の拳への挑戦は諦めるべきだったのだ。

 もう一つ、彼は阿片の力を借りることで、孫家拳の強さの源である「狂気」を高めたわけだが、そもそも彼には言うほどの狂気は無いように思える。玉玲の優しさに触れて殺すのを止めてしまうような情を持った男が、狂気の権化を謳ったところで説得力は無い。というか、彼は本当に阿片で狂気を高められていたのだろうか。阿片の効果は鎮痛や恍惚感が主であり、実際狂雲はそれで恐怖を和らげているのに、それと平行して狂気も高まるというのは変だ。まあ阿片を使っている時点で狂気ではあるが。

 戦いの内容に関しても、実にお粗末と言わざるを得ない。秘孔変位は確かに強力な奥の手であり、実際狂雲はその奥義のおかげで拳志郎を相手に優位に立ったわけだが、ハッキリ言って「優位」では全然駄目だ。死を乗り越え、阿片で身体をボロボロにしてまで会得した究極奥義だというのに、結局それで得られたのは相手の左手の指3本のみ。全く持って割に合わない。
 確かに秘孔突きを無効化されるのは北斗神拳にとって痛手だが、ケンシロウがヒョウ戦やった「秘孔が突けぬならその身体砕き割る」戦法のように、対処の使用はいくらでもある。秘孔変位を会得したといっても、ほぼ同じ土俵に立ったに過ぎないのだ。この奥義を最大限に活かせるのは、まさにこの奥義を見せたその一瞬。相手が秘孔を突いて勝利を確信し、油断を見せたその瞬間こそが、絶好の勝機となるのだ。実際、狂雲が師父を倒したときは、その油断を突いたような形での勝利だった。なのに何故拳志郎戦ではあのような使い方をしてしまったのか。虚を突くような勝利ではなく、実力で始祖の拳をねじ伏せたかったとでも言うのか。その傲慢さもまた、孫家拳が誇る「狂気」故なのか。だとするなら、それはもう孫家拳が歩んできた道そのものが間違っていたと言わざるを得ない。

 だいたい狂気などに頼らずとも、孫家拳には操気術という卓越した技がある。離れた位置から拳志郎に膝をつかせた吸収技や、銃弾の軌道を変えるというギーズの使い方も実に強力だった。拳志郎に至っては、操気術の技術を応用して天破活殺まで修得してしまっている。皆様もご存知の通り、北斗神拳奥義の中でも反則級の強さを誇る奥義だ。しかし拳志郎に出来たのなら、本来の孫家拳の使い手である狂雲だって会得することはできた筈。そこに至れなかった原因は、やはり「狂気」の所為であると私は思う。そのような不埒な方法で闘気を高めるのではなく、ただ一筋に操気術を磨き続けていれば、孫家拳は更なる飛躍を遂げ、もっと始祖の拳に肉薄することが出来ていたのではないかと思えてならない。狂雲を弱者たらしめたのも、全ては孫家拳が進化する方向性を見誤った事が原因なのである。

 ただ、狂雲の拳に対する想いだけは、蒼天の拳の中で誰よりも強かった事は間違いない。文明が発達し、北斗に属する者達もそれぞれ拳法家とは別の生業を持って生き始めている中で、狂雲だけは特定の組織に属したりする事無く、ただひたすらに拳の道を往っていた(一応紅華会に協力はしていたが、以前は青幇の翁の依頼を受けたりもしているのでフリーの用心棒といったような立場だったと思われる)。ヤサカのように祖先の復讐に突き動かされて等という理由もなく、ただ拳士として北斗神拳伝承者を超える事を望んだのだ。

 時代の流れに取り残された不器用すぎる男。彼が生きるべきは、拳の強さだけがものを言う時代・・・・そう、北斗の拳の世界だったのかもしれない。


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