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蒋介石
しょうかいせき



登場:第105、137話
肩書:国民党軍軍事委員会委員長

 国民党軍事委員会委員長。実在の人物。
 1936年に南京で開かれた羅虎城を殺した閻王への処遇を決めるための会合に出席。拳法には拳法で応ずるべきだとして、中国で最強の拳法家を探し出すよう陳立夫に命じた。

 劉宗武中国に戻ってきた際には、ドイツ国防軍大佐のヘッケラーと会談し、宗武を連れ戻した理由について話を聞いたりしている。
 日中の対立が深まった際には、日本からの和平の使者に全く会おうとはしなかったが、孫文の恩人である鮫島義山が密使となったことで会談を承諾。しかし鮫島が暗殺されたことで結局実現はしなかった。



蒋 介石(1887年〜1975年)

中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となった人物。

清国の浙江省奉化県にて生まれる。父を早くになくし母子家庭で育てられ、西洋法律を学ぶ。1906年に日本へ渡り、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心人物である陳其美と出会い、その交友が後に蒋介石が起こす武力革命に大きな影響を与えた。帰国して軍事教育を受けた後に再び日本へ渡り、東京振武学校に留学。1910年に孫文との出会い、革命に軍事面で貢献したいと本人に表明した。

1911年に辛亥革命が勃発すると帰国して革命に参加。杭州方面の革命軍団長として大きな功績を上げた。その後、国民党員となった蒋は、第二革命時に孫文に命じられ、第五団を率いての蜂起を企てるも失敗。日本に亡命することとなった。そこで軍事専門家の養成機関の教官に選ばれるが、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こし、解散処分となった。1914年、孫文が東京で中華革命党を結成すると、それに入党し、孫文に絶対の忠誠を誓った。

1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立。新政府において蒋介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。

1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。更には上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握。孫文の後継者としての地位を確実なものとする。その孫文の追い求めた北伐を果たすべく、国民革命軍総司令に就任し、北伐宣言および国民革命軍動員令を発令。約10万の兵力を率いて出陣した軍は、民衆の支持も受けながら快進撃を続け、1928年に遂に北京に入城。満州軍閥・張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約し、中国の再統一が成された。

1931年に日本の関東軍による満州事変が勃発するも、蒋介石は国共内戦を優先。その後、張学良と楊虎城が起こした西安事件で拘束され、第二次国共合作を認めるよう強いられた。

1936年、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談している。

1937年、盧溝橋事件を機に、抗日を推し進める。12月には日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。

1945年、太平洋戦争で日本が敗北したことにより、抗日戦争も終戦。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。しかし翌年、国共内戦に突入した。蒋介石は1948年に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け1949年に辞任。

1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられた。

1950年3月に再び総統に就任。アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし同年に香港に植民地を抱えるイギリスが中国共産党が建国した中華人民共和国を承認したほか、朝鮮戦争への国連軍側としての参戦をアメリカから拒否されるなどの逆風を受けた。

1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台から去り、1975年4月5日に死去。87歳没。