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ハンス・ゼークト



登場:第137〜139話
肩書:ドイツ軍の大将

 ドイツ軍の大将。ヒトラーの宿敵であり、ドイツの影の支配者と呼ばれた男。第二次上海事変において、日本軍上海上陸を阻むため、トーチカを建築させたという逸話を持つ。

 かつて劉宗武北斗劉家拳に目を付け、自らの部下に引き込み、共にドイツへ。宗武の暗殺術でヒトラーや欧州列強の英雄達を暗殺しようと目論んだが、その目的が果たされぬまま死去した。




ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークト(1866年-1936年)

 ドイツの軍人。参謀総長や陸軍総司令官を務め、1920年代前半のヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」である軍の権威を確立した人物。

 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にて陸軍将校の息子として生まれる。19歳で陸軍に入隊。第一次世界大戦では主に東部戦線に従軍し、1915年以降は各地の戦線で参謀長を務めた。敗戦後の1919年、パリ講和会議ではドイツ側の陸軍代表として参加。ヒンデンブルクの退任後には兵務局(参謀本部)の局長に就任。1920年3月には陸軍統帥部長官にまで昇進した。以降も大統領より軍事独裁権を付与されるなど力を伸ばすが、歩兵連隊の演習において勝手にゲスト招待したこと等を政府から非難され辞職、退役した。

 その後は軍事評論家やドイツ人民党の党員を務める中で、ドイツの軍事技術を求める中国国民党との関係を深め、1931年にはペルツ中国商会マイアー=マーダー退役大尉と接触し、広州に武器工場を建設するという協定の支援を決定。1932年には蒋介石より中国旅行に招待され、1933年5月6日に香港に到着。自身の日記に、この渡航が全て金のためであった事を記しており、滞在中に蒋介石より計4万ライヒスマルクを受け取ったとされている。その後は北京等に滞在した後、7月14日に帰国の途に就き、8月8日にマルセイユに戻った。しかしゼークトを顧問団長に就任させたかった蒋介石は、2月と経たぬ内に高額の報酬を提示してのゼークトの再訪中を要請し、外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてこれを許可。1934年4月8日に上海に到着し、蒋介石より国民政府軍の再編を委嘱され、蒋介石不在の際の軍事指揮権をも委任された。しかしこの頃から体調を崩し、またドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化をはかっている事を蒋介石に伝えなかったことで不信を買い、板挟みとなって心身をすり減らした結果、1935年3月1日に顧問の辞表を提出。受理されなかったものの、一時帰国したまま二度と中国に戻らず、跡目はファルケンハウゼンに受け継がれた。この在任中に上海周辺に構築された防御陣地は「ゼークトライン」と称され、1937年の第二次上海事変の際に日本軍に大打撃を与えたが、最終的には攻略されている。

1936年12月17日にベルリンにて死去した。
(Wikipedia 他より抜粋)