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近衛文麿
このえふみまろ



登場:第144話
肩書:日本国首相

 当時(1937年頃)の日本国首相。和平派であり、中国との和平条件を詰めるために何度も蒋介石に密使を送ろうとしたが、全て陸軍に阻止された。実在の人物。



近衞 文麿(1891年〜1945年)

日本の政治家。栄典は勲一等公爵。第34・38・39代の内閣総理大臣。

公爵・近衛篤麿の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれる。1916年、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員に。パリ講和会議では全権・西園寺公望に随行し見聞を広めた。

旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成し、貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物に。家柄や、高学歴、高身長、貴公子然とした端正な風貌と既成政治打破的な主張で大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられた。1933年には貴族院議長に就任し、自らが中心となった昭和研究会を創設した。

1934年、アメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトと会見。

1937年、西園寺公望の推薦により大命降下を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組織。首相就任時の年齢は45歳7ヶ月で、初代首相・伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さであった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。

7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。蒋介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け、内地三個師団を派兵すると発表。「事件不拡大」を唱えながらも軍のための予算をどんどん追加し、上海で大山事件の発生によって日中両軍による戦闘が開始されると、断固膺徴声明を発表。不拡大方針を放棄すると閣議決定した。

1938年1月「爾後国民政府を対手とせず」という、「近衛声明」を発表。その後、国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年12月には親日派の汪兆銘の重慶脱出を受けて「近衛三原則」(善隣友好、共同防共、経済提携)を日中和平の基本方針として呼びかける声明を発表した。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し1939年1月に内閣総辞職した。その後、新党構想の肉付けに専念し木戸幸一や有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成。独裁政党の結成を目指し、「新体制声明」を発表した。

1940年7月、第2次近衛内閣を組織。前内閣が消極的だった新体制運動・日独伊三国同盟を締結。1941年には日ソ中立条約を締結した。同年7月16日に、松岡外相を外すことを目的とした内閣改造を断行するためにいったん内閣総辞職した。

1941年7月、第3次近衛内閣を組織。しかし南部仏印進駐を実行したことでアメリカから対日石油全面輸出禁止等の制裁強化を受け、日本は窮地に立たされることに。9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。イギリス、アメリカに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アジアに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダに対する開戦方針が定められた。
日米首脳会談による解決をめざし、早期実現を強く訴えたが、アメリカ国務省は妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、会談を事実上拒否する回答を示した。戦争の決断を迫られた近衞は、対米戦争への対応を協議する「荻外荘会談」を行い、「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。

1943年、和平運動に傾いていることを察した東條から、止めたほうがいいと脅しをかけられ、これに優柔不断で弱気だった近衞は激怒。以後、和平運動グループの中心人物になり、積極的な行動を展開。

戦局が厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会が設けられ、2月14日に昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いた「近衛上奏文」を奏上。その後、天皇はソ連を仲介とした和平交渉を行う事を政府に認め、近衞に特使に就任。しかしスターリンに事実上拒否され、実現しなかった。

日本が敗戦し、日本占領が開始された後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問。開戦時において天皇を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、皇室と財閥を除けば日本はたちまち共産化すると説いた。その後、治安維持法の廃止を巡って東久邇宮内閣が総辞職したことにより私人となった。憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていたが、国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始め、やがてGHQによる近衞の戦争責任追及が開始。砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について米国戦略爆撃調査団による厳しい尋問が行われた。近衞の戦争責任に対する態度は、自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判された。

12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢であり、また総理大臣経験者として死因が自殺である人物は近衞が唯一でもあった。